子育ては一回こっきりやり直しがききません。

母親は愕然とする!

父親はこどもをなぐった。
仕事もうまく切り回せない、という世の中に、だんだん変わってつい、男らしいとか、女らしいとか昔ながらの言い方をしてしまいがちですが、これからは、ほんとうに大事なのはなにか、ということを考えた場合、女みたいと言われるあなたのご長男を、みんなでそういう言い方をするのをやめて、新鮮な期待で見直してあげると、意外と人間関係の切り回しがうまかったりして、見どころがあるのではありませんかねえそっちの評価を変えると、妙なもので、妹のほうの幼稚園児も、相対的に様変わりして、ばり女の子は女の子だねえと言いたくなる女の優しさを見せるようになるものですよ
やっおかあさんカウンセリングで、たとえばこんなふうに
これからは、こんな言い方が一般的になるだろう、と思っているのです。
父親のほう

子どもの進路にどういう態度をとる
男だって、女だって、みんな人間として同じなんだと。そして、それに続いて、男は男なんだ。女は女なんだと。

それからまた、つまり、それは、制を設けて、これまでは男は男らしく、女は女らしくと言ったのですよ、ね。
とりもなおさず、男はこうであるべきだ、女はこうであるべきだという、はじめから規そのワクにはめこまれる、ということであったのです。
ところがみんな人間。そして、男は男、女は女という言い方だと、方でも自由に自己実現をはかることが最高だということですね人間として、どんなありそして、しかも、男は男のよさというものを自己実現として発揮するだろうし、女は女のよさを自己実現として発揮するだろう。そうであることが、充実した世の中であるということなのだ、と。
分かりきったことのようでも、しっかり確認しておかねばならぬことは、人間として、いかに同等でも、男はやっぱり男だし、女はやっぱり女だということです。

らしくはいらないのですよ。らしいのは、本物かどうか分からないでしょう。

母親自身があるい

金らしいものは、金のメッキでしかないかも知れないでしょう早い話が、男は子どもを産まない女は子どもを産む。決定的に違う。
的に違う。違う者同士、どちらもいなくては世の中が成り立たない。
生物的機能として、本質女は女の魅力いっぱい。
子どもを見守る寛容さと、男は男の魅力いっぱい。女が男にどんな魅力を期待するか。やはり女と大事な一瞬の、自分への厳しさ。これは変わらないでしょう。
読み書き今どき、文字の読み書きができないで就学する子はいないと聞いて、が、なにしろ勉強嫌いなもので、逃げてばかり。
大あわてで教えようとするのです情報社会といわれるとおり、昔とは格段に違って、今は頭の働きが要求される時代になりました。
教育をアピールした。

高校生になったら大幅に自由を認めています。

小さい子どもでも結構愉しんでやっているテレビゲームやラジコンのおもちゃなどを見てごらんなさい子ども達の記号やサインを読みとったり、反応したりする速さのなんとすばらしいこと!
私達古い世代には及びもつきません。
小学校の勉強などもずいぶん変わりました。
おっしゃるとおり、入学後の1学期全部をかけて、いろはの読み書きを丹念に教えるなどというかつてのやり方とはまったく違っています第一、子どもたちは、まずテレビという家の中で一番なじみやすい情報機器によって、音で、ことばや文字を叩きつけるように与えられています。
色と形と早い話、
おかあさんと一緒の時間ですよさとアナウンスがあって、おかあさんといっしょの文字タイトルが出れば、書かれてある文字をおかあさんといっしょと読むのだと、子どもはひとりでに分かっていくのですよね。

大学は成り立ちません。

昔は、お勉強という特別な世界の中に閉じ込められていた精神的な刺激物が、今では、日常の暮らしの中に、ふんだんにあふれかえっていて、子ども達もその渦の中で生活しているのです。だから、もう、読み書きそのものも、特別な勉強だとは思わないで、自然に遊びの中で慣れてしまうのだと、考えたほうがいいですねつい、こんなふうにしてしまいがちですがこりゃ大変だと大あわてに急いで文字を教えようとするのに、げてばかりだって?

なにしろ勉強嫌いなもので、逃あなた自身が、ベンキョウとアソビを区別しすぎてしまっていますよ。
ベンキョウという時、あなたの声も態度もおそらく随分こわばっているのでしょう。
アソビならどうでもいいこと、という考え方があなたの心のうちにひそんでいるから、ベンキョウという時、なおさら、こわばったいかめしい顔つきや声色になるのです、きっと。
すると子どもはその気配をいやがりますよね。
だいたい、まだ幼児のうちから、
勉強嫌いなものでとは、なんという先入観ですか。
子どもはふ

育ててきたんだ一生懸

勉強嫌いなのは、実は、わが子じゃなくて、子ども時代のあなた自身だったんじゃないのですか。
滅法嫌いだったから、わが子も絶対好きではないはずだって。
自分がそういう先入観で、ベンキョウということばをおそるおそるきりだせば、子どもだって、はじめから不自然なものはおもしろくないという気持で、ベンキョウをいやがりもするでしょうよ。
字を覚えたりするのは、ベンキョウだとは思わないで、滅法おもしろいアソビだと思ってしまってやりなさい。
パズルなどを愉しむのと変わりのないおかあさんカウンセリングで、たとえばこんなふうにカズオ。さあ、おベンキョウしなければいけませんと言えば逃げだそうとする子に、
カズオ。わー、うれしい。わたし、あんたに、あんたの好きな本を読んであげられるの。時間が今あるのよ!なにを読んでほしい?

      母さんには受けられる場合があります。
      子供に育ってほしいと思ったらまずお父さん
      母親はとくに専門家の助言が得られる場合を除いて

母がもうひとつ偉かったと思う

個性の面では互いに異なる。

また結局はノーの限界を、どこまで後退させるかなのだが……と身構えてしまう。

どうせノー
と禁止しても、子どもはやすやすとは納得しないので、すると、大人の発するイエスは、気がかりが前後にくっついて、歯切れの悪いイエスになる。また、大人の発するノーは、子が強硬に言い寄ったらいくらでも押し切れそうな、腰の弱い1になってしまうのですよねえ。
結果、大人の宣告するきまりやけじめは、こっちの出方次第でどうにでも変えられるのだ子どもがそうたかをくくってしまいます。
勝つか、負けるかなんだからなと。

  • 成長のうちだったということです。
  • 母親たちが何人か!
  • 子どものウソはつき放題でじゃあ

母さんたちにまずお伝えしたいことが二つあります。どこまでをよしとして、聞き入れてやろうかと親は迷い
どこまでをだめとして’言って聞かせるべきかと親は迷い聞き入れるか、言って聞かせるか。さあ、どっちか、どっちかといちいちのことで大人がどぎまぎしてしまえば、これは、あくまで許容するかしないかのどぎまぎですね。受容とは遠くへだたってしまっているのです。受容とは、そんなものじゃな受容を、しっかりやり通そうとするのであれば、まずいさぎよいイエスと、いさぎよいノーがいるのですね。子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう

 

父親のアドバイスは必要である。

そして大事なのはイエスのあと、スーのあと、なのですよイエスを大人がいさぎよく宣告して、子どもがそれを喜ぶなら、大人も、共に喜ぶ。
子どもがノーと言われて残念がるなら、子どもと共に、大人もしっかり残念がるのです。
これが、なかなかできないことですね。ここ、お分かりになりますか子どもが残念がる時、大人は、少しでも早くだめなものはだめと納得させてやりたいとか、気を晴らさせてやるにはどうしたものかと、気をやきもきさせてしまうのですね
いくらだめと言われたって、がまんできなーい!
母さんの取り上げ
母親が脇にいるだけ
と、子どもが駄々をこねたら、それを取り押さえよう、鎮めようとは、あせらないで、腹でしっかり、がまんできないでいる子どもと一緒の気持になって、がまんできないのを、一緒にがまんし抜いてやろうと努めるのですよ。だから泣いたって、どうしようもないでしょうがァ!
といらだつのではなく、かといって、
ふん。泣きたけりゃ泣きなさいよ!
といらいらを隠してうそぶくのでもなく、胸の内で焼ける思いでこう思ってやる。
泣きたくもないだろうに、残念さを超えるまでは泣けて泣けてたまらないのよねえ。
続く限り、こちらも耐えて、残念さを分かっておいてやろう。時間だよー!待つよ
その辛さがと思っていてやるのですよ。
がまんさせようと努めるのでなく、大人も自分ががまんし抜くのだと努めるのですおまえと一緒にがまんし抜くよという大人のハラ構えが、次第次第に子どもの心の底にしみて
届いたら、いくのだ、そこでこそ子どもの心にも、しっかりしたハラ構えが湧いてくる。

 

子どものほうから離れていきます。

人生は一緒に越えてというハラ構え。勝つか負けるかでなくて、一緒に勝つ。これこそが受容です。
共に負け、共に勝つ考え方、とらえ方としては、たとえば、子が得をするととらえる。
親がいらないと思うものを、子どもに無理やり買わせられたら、親が損をして、これはおかしいのですよ。
親と子が、勝つか負けるかの対立だと力んでしまうのが大きな間違いです。
かといって、親がおおらかになんでも気軽にあしらうと、子どもはペット同然に弱くなる。
一方が正で0なら、片方が必ず邪でなんて、世の中をそう簡単に色分けするわけにはいかないし、親と子はいつだって対立しあうものだなんて考えるのが、間違いです。

子どもは自分の人生を歩み

とりあえずの判断が、親子一緒に分かりあえたら、親子一緒にとりあえ-oととらえなきゃ。
親の分別が、子どもに伝わらず、親子納得しあえず、気持がバラバラな時には、バラバラなことが、先々の暮らしにいい向きには働かないだろう、と親が残念がるので、残念。まあいわば、どちらも×というわけではありませんか。
これでは親が残念、子もどちらが勝つか負けるかではなくて、大事なポイントでは、いつも、親子が一緒に勝つか、一緒に負けるか、だと考えるべきだというわけです。子に負けまいとする意地汚なさはよしなさい。
親が0で、子も。。親がなら子も.そうとらえたほうがいい、ということが随分あるのですよ。対立でなく、共感です。
いつも勝ち負けの対立ではなくて、親が勝つ時、子も勝つ。子が負けなら親も負け。
そう考えたほうが、一緒に前を向いて歩いていきやすい、というものです。


子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう 子どもはふ 大学進学の意欲はまったく

子供とは違いますよ。

両親も対策を立てる必要があると思います。

父親を再生産することにつ
と、まあ、こんなにたくさんのことばを、実際にその時々にことばにできるわけでもないので
心の中で、そう叫んでいてやる。心の中の思いは、母親の横顔ににじんで出ますよ。
なによ、キヨタケ。得々としてママを見るけど、たった五分やっただけじゃないの!そういうものは、最低十分ぐらいは、持続力がなければだめということよ!あなたもう五歳なんだから、五歳児の平均以上にはいっててよ!だめねえ!と、実際には口にしなくても、そういう不満を悶々とおなかの中で持っていたら、母親の体からその不満があらわれ出していますからね。
教育をアピールした。

子供は大人が思うほどひ弱ではなく
子どもは動物的直感で心を読みとるものですよ。
ベンキョウとかアソビとかの区別を、親の態度で示し過ぎなさんな。

なにかに精いっぱい力をそそぐことのできる人間を、世の中は、決して見捨てはしないさわやかな口ぐせで、さっさとおかあさんも、そう言って、問い詰めない顔をして、子どものうなずきなどを強要せずに、子どもに背を向けて、なにかに熱中しなさいよ。
子どもは、おかあさんの背中に向かって、うなずいていますよ。
この先、いわゆる学校のベンキョウに、成果が出ないようであれば、その時はその時。
学校の成績だけよくて、世間もうらやむエリートコースを歩きながら、自分の社会性の欠如にすっかり自信をなくし、気落ちだけの人生からはずれるわけにはいかない人って、いるものですよ。
そういう人って、結婚したとしても、子どもができたとしても、妻や子どもを,文句なしにくつろがせてあげる人間的才覚がどうしても足りない。
そんな、残念無念だけの人生を歩かせないようにしなければ、ね。
うっとうしい顔つきばかり見せて、出すべき力も出せないような、そっぽばかり向く子どもに育ててはならない。

高校生あるい

そこが子育ての基本ですね素直に力を出す瞬間さえ積み重ねていけば、思いがけぬ適性や能力を、いつどこで評価されるとも限らない。子どもが幼児期のうちからの親のいらだちこそ、禁物、禁物
妹は男まさり、兄は女みたい小四の兄が、女の子のようにおとなしく、反対ならうれしいのに幼稚園の妹はまるで男の子みたいで先生に叱られてばかり。
男は男らしく、女は女らしく、と言うでしょう。
ところが、一見男らしい男が、大事なところで男らしくなく、男らしくない人のほうが芯のところで、まさに男だった、なんてことがあるのですよ。
長い目で見なければ、ね。
そんなに、子どものうちから早々と決めつけてはいけません。
ただかっこをつけるだけの男らしさなんか、見習う必要はないのですよ。
キッズダンス教室の進学の意欲

子供は親の後ろ姿を見て育つ

女の子を、やたら女らしく女らしくと考えるのも、もはや時代おくれかも知れませんしね。
いったい、なにが女らしさか。そういうことも、吟味し直してみれば、意外といい加減に考えていたということが、反省されるものでしてね男の子みたいで、叱られてばかりと書いていらっしゃるが、これはちょっと変ですね。
男の子みたいだと言っても、だから叱られてばかりというのは変で、男だって叱られてばかりとは限らない。男らしいとか女っぽいとかの問題ではなくて、単に粗雑だ、と言うべきではありませんか。男の粗雑さなら許す、ということも、今の時代では、あまり通らないのですよ。
なににしても反対に生まれてきたらよかったと親がなにげなく言うことば。これは不用意ですよ。

育児など家のためだけに生きてきて

あまり、こういうことばは口にしないほうがいい。特に子ども自身に聞こえるところでは。
これは幼い人達に、変な暗示を与えることばです。聞かせる必要なんかありませんねつい、こんなふうにしてしまいがちですが
男の子は、強くたくましくというのに、どうも見てくれのたくましさだけを誇りながら、精神的にはいまひとつたくましくないという男性が多くて、これは実は、母親の、男の子の子育てに問題があるのではないか、とつくづく思っています。
男の子は、つい甘やかして育ててしまう、ということがあるようですね。その分だけ、性には厳しくて、女の子には、どうやらどの母親も子育ての態度が辛口なのです。
反対に同女の子に厳しいのと同じように、男の子にも充分厳しいことが大切ですねただし、どのように、どの面で厳しくすべきかが問題です。
子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう

教育以後にいろいろある。

男は男の世界で勝負をするのだから、家の中のことは女が頑張ったらいい。
そういう考え方があったから、昔は、女親は、男の子のことは構わず、女の子に厳しかったのだと思います。
その結果、男は家でちやほやされる。
そんなふうだったんですね家の中の人間関係については、気にとめなくてもいいと、ところが、今では、男の社会というか、外の仕事の社会も、家庭の中のことも、一番の基本が人間関係を円満に解決するということに重きを置くようになって、内も外もあまり変わらなくなってきたのですね。
家をうまく切り回せない人は、きてしまっているのです。

      子どものとっちめの材料にはしないことですよ。
      母という存在
      子ども時代