「先生に詰めよったためにい出されてしまったのです。」タグアーカイブ

教育改革という

母さんが貸してあげようか。

そうやって、いつまでも、泣きたくもないだろうにとまず、そう思ってやる。その次に、子どものもうひとつの心の現実をしっかりととらえてやるわけです。つまり、
どうしてだか、泣けてきて泣けてきて、たまらないのだなと。
どうですかこの二つのとらえ方。子どもの心の自然な共感でしょ。
子どもの心の、矛盾しあう二つの思い続けて書くと、こうですね。
そうやっていっまでも泣きたくもないだろうに、泣けてきて泣けてきてたまらない時には……で、この時にはのあと。
ふつう一般に、「こういう時は、そのあと、どう思ってやるかです。大事なのは。
こうしたらいい」と、問題状況に対しては、打開策とか、解決法とかを、示してやろうとしますよ、ねするとこういう場合も、解決策を考えてやるべきでしょうか。
私はそうは思わないのです。

  • 子供の運動会に行き
  • 子どもとひとり歩きしてしまっています。
  • 子どもはかなりの決意をして

練習をさせていました。解決策をさずけてもらって、うん、そうする、とうなずくほどにも、子どもの気持は安定していないのです。
必要なのは、気持の確認
なのですよ。
確認を深める。
それに尽きるのです。

情緒を共有してくれる大人の存在が欲しいのですね。
つまり分かってほしい
だから、こう言ってやる。
いつまでも、のですよ。
「そうやって、ねえ。
泣きたくはないのに、泣けてきて泣けてきてたまらない時には……。
そうやって、ねえ。
いつまでも、泣きたくはないのに、泣けてきて泣けてきてたまらないのだよ……。
そうなんだよなあ、ヒサシ」教育改革という

 

子どもスペー順番はもちろん整理が先収納は後です。

そう言うだけ言って、大人はさっさと自分の仕事。
これ、お分かりでしょうか。
この思いが、うまくこのとおり言えるなら、言ってやればいい。
うまく言えなければ、おなかの中で、そう思っておいてやればいい。
悲しい時は悲しみを超えるべきだなんて教えられるよりは、もっと直截なひと言でいい。
悲しい時は、悲しいねえ
ただし、ひけらかす皮肉などでなく、しっかりしみじみと深い共感で明るい時は、いつまでもその明るさを忘れないようにとかと言われるよりは、共に明るい顔をちょくせつこのほうが、分かってくれている
という実感が深まるのです。
してくれて、明るい時は明るいね
と言ってくれるほうが、明るさが深くなる。
そういうのが、より豊かな情緒の共有なのですね。
どうにも泣きやまない子に、ほんとに、一度、深々とゆとりをもって言ってあげてごらんなさいよ軽口、冗談、皮肉の調子では、
母さんのおなかにいるとき
先生が何と多いことであろうしっかりしたことば
「そうやって、いつまでも、ねえ。
絶対に逆効果になりますよ
泣きたくもないだろうに、ねえ。
泣けてきて泣けてきてたまらない時は、ねえ。
ほんとに泣きたくもないのに、さ。
ほんとに泣けてきて泣けてきて、たまらないのだよ、ねえ」
と。あくまでもまじめに深々とゆとりをもって、そう言ってやる子どもは、エ?と息をとめるでしょう。そして、今聞いたことばを反芻するでしょう。
子どもはもともと、ビービーだれが泣きたいものか。泣きたくなんかないのだと思う自分のはんすう自尊心を、認めてくれたようだ、と思って軽い驚きが生じてくるでしょう。
しかも、それにもかかわらず、事が意に反しているのが切なくて、どうしてだか泣けてきて泣けてきてたまらないというやりきれなさも、大人が知ってくれている、と知って、思わず息をのむでしょうなんだ!分かってくれているのだ
その時、どうでしよう。子どもの心が、知らず知らずのうちに明るく開いてくるのです。
泣き続けて、切なさを大人に分からせようとするもどかしさが、止めようと思っても、いくら止めようとしても湧き続けるその切なさと共に、ひとりでに消えてしまって。

 

子どもの存在の持つ意味は大きい。

アレ?
泣く理由がない。
子どもは、ふっとふっきれた軽やかさで、今まで泣いて泣いて泣き続けていたとはとても思えない明るい調子に、カラリと変わって、
あ、ジェット機!飛んでるよ!
と、空を指さしたりして。
天性の晴れやかさに戻っていたりするのですよ。

うん、カウンセリングでいう受容
とは、ただ単に言うことを聞いてなるほどうん、そうとうなずくというのではなく、ましてや、要求をことごとく聞き入れてやるというのでももちろんなくて、心の内の葛藤しあう思いの総体をいかに的確に確認してやるか、そして、それを確認し得ているということを、いかに本人に示しうるか、ということなのです。

子どもは愛で育つのだ愛

大人の責任を通し抜く
カウンセリングというのは、子どもを導く方法としては、どうもねえやたら分かってやることばかり、というのでは、大人が子どもの言いなりになるだけだから。
分かる、分かるとうなずいて、度量の広い、物分かりのいい大人になってやって、けじめもめりはりもないというんじゃ、導いているのじゃなくて、引きずり回されているだけではないですか。
もっと、大人は子どもにびしびしやっていかなきゃあと、こういう非難が、ほんとうのカウンセリングの原理に対しては、およそ見当はずれのものであるということが、以上で、少しお分かりいただけたでしょうか。
聞くという概念を、なんでも言うことを聞いて許してやるという意味での聞き入れると一緒くたにとらえているがために、カウンセリングに対しての大きな誤解が一般に多いのです。
大人はもちろん、子どもに対する責任を、通し抜かねばなりません。
親は、親としての。
教師は、教師としての。


教育改革という 高校そしてできれば 子供とは違いますよ。