「子供」タグアーカイブ

母がもうひとつ偉かったと思う

個性の面では互いに異なる。

また結局はノーの限界を、どこまで後退させるかなのだが……と身構えてしまう。

どうせノー
と禁止しても、子どもはやすやすとは納得しないので、すると、大人の発するイエスは、気がかりが前後にくっついて、歯切れの悪いイエスになる。また、大人の発するノーは、子が強硬に言い寄ったらいくらでも押し切れそうな、腰の弱い1になってしまうのですよねえ。
結果、大人の宣告するきまりやけじめは、こっちの出方次第でどうにでも変えられるのだ子どもがそうたかをくくってしまいます。
勝つか、負けるかなんだからなと。

  • 成長のうちだったということです。
  • 母親たちが何人か!
  • 子どものウソはつき放題でじゃあ

母さんたちにまずお伝えしたいことが二つあります。どこまでをよしとして、聞き入れてやろうかと親は迷い
どこまでをだめとして’言って聞かせるべきかと親は迷い聞き入れるか、言って聞かせるか。さあ、どっちか、どっちかといちいちのことで大人がどぎまぎしてしまえば、これは、あくまで許容するかしないかのどぎまぎですね。受容とは遠くへだたってしまっているのです。受容とは、そんなものじゃな受容を、しっかりやり通そうとするのであれば、まずいさぎよいイエスと、いさぎよいノーがいるのですね。子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう

 

父親のアドバイスは必要である。

そして大事なのはイエスのあと、スーのあと、なのですよイエスを大人がいさぎよく宣告して、子どもがそれを喜ぶなら、大人も、共に喜ぶ。
子どもがノーと言われて残念がるなら、子どもと共に、大人もしっかり残念がるのです。
これが、なかなかできないことですね。ここ、お分かりになりますか子どもが残念がる時、大人は、少しでも早くだめなものはだめと納得させてやりたいとか、気を晴らさせてやるにはどうしたものかと、気をやきもきさせてしまうのですね
いくらだめと言われたって、がまんできなーい!
母さんの取り上げ
母親が脇にいるだけ
と、子どもが駄々をこねたら、それを取り押さえよう、鎮めようとは、あせらないで、腹でしっかり、がまんできないでいる子どもと一緒の気持になって、がまんできないのを、一緒にがまんし抜いてやろうと努めるのですよ。だから泣いたって、どうしようもないでしょうがァ!
といらだつのではなく、かといって、
ふん。泣きたけりゃ泣きなさいよ!
といらいらを隠してうそぶくのでもなく、胸の内で焼ける思いでこう思ってやる。
泣きたくもないだろうに、残念さを超えるまでは泣けて泣けてたまらないのよねえ。
続く限り、こちらも耐えて、残念さを分かっておいてやろう。時間だよー!待つよ
その辛さがと思っていてやるのですよ。
がまんさせようと努めるのでなく、大人も自分ががまんし抜くのだと努めるのですおまえと一緒にがまんし抜くよという大人のハラ構えが、次第次第に子どもの心の底にしみて
届いたら、いくのだ、そこでこそ子どもの心にも、しっかりしたハラ構えが湧いてくる。

 

子どものほうから離れていきます。

人生は一緒に越えてというハラ構え。勝つか負けるかでなくて、一緒に勝つ。これこそが受容です。
共に負け、共に勝つ考え方、とらえ方としては、たとえば、子が得をするととらえる。
親がいらないと思うものを、子どもに無理やり買わせられたら、親が損をして、これはおかしいのですよ。
親と子が、勝つか負けるかの対立だと力んでしまうのが大きな間違いです。
かといって、親がおおらかになんでも気軽にあしらうと、子どもはペット同然に弱くなる。
一方が正で0なら、片方が必ず邪でなんて、世の中をそう簡単に色分けするわけにはいかないし、親と子はいつだって対立しあうものだなんて考えるのが、間違いです。

子どもは自分の人生を歩み

とりあえずの判断が、親子一緒に分かりあえたら、親子一緒にとりあえ-oととらえなきゃ。
親の分別が、子どもに伝わらず、親子納得しあえず、気持がバラバラな時には、バラバラなことが、先々の暮らしにいい向きには働かないだろう、と親が残念がるので、残念。まあいわば、どちらも×というわけではありませんか。
これでは親が残念、子もどちらが勝つか負けるかではなくて、大事なポイントでは、いつも、親子が一緒に勝つか、一緒に負けるか、だと考えるべきだというわけです。子に負けまいとする意地汚なさはよしなさい。
親が0で、子も。。親がなら子も.そうとらえたほうがいい、ということが随分あるのですよ。対立でなく、共感です。
いつも勝ち負けの対立ではなくて、親が勝つ時、子も勝つ。子が負けなら親も負け。
そう考えたほうが、一緒に前を向いて歩いていきやすい、というものです。


子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう 子どもはふ 大学進学の意欲はまったく

教育をアピールした。

子どもは敏感です

子どものことをさんざん話している
つい、こんなふうにしてしまいがちですがいろんな学習の教室に行かせていても、家ではなんにもしない、ということで、だからあいている時間を、もっといろんな学習で埋めていかないともったいない、というお話ですが、これはちょっと寒気がしますね。
ピノキオは、人形がほんとの人間になりたがっている話なのに、これは、の人間であるわが子を、ピノキオにしたがっているように見えます言ってみれば、ほんとこの頃、子どもにまで自律神経失調という状況が多く見られるのは、操られたときにだけ動く人形が、不意に自分で動けといわれて、手も足も出ない、という、たとえてみればそういうことなんですね。こういう時にはこうしなさいああいう時にはああしなさい、と教えられていても、実際場面ではまずもって、今がこういう時なのか、ああいう時なのかの判別がつかない。動きがとうのが、自律
の买調
なわけです。
学習塾にはいろいろ行って、あとは時間があいていてもなにもしないというのは、決められたことを決められたとおりにしなさいと言われた時だけ、手足を、いわば先生にあずけて、先生の思いどおりに動かさせてあげているのだ。
子どものために惜しみなく与えていくという家庭で育

母さんたちに本当
その時以外なんにもしない、というピノキオになってしまっているのではありませんか。
今どきの子育ては、競ってそんな子をつくっている、というふしがありますねおかあさんカウンセリングで、たとえばこんなふうにむしろ、おけいこや教室の数はもっとへらして、子どもに自由な遊びの無限の愉しさを、発見させてやりなさいよ。
自律の最高のトレーニングはねえ。子ども同士、自由な遊びを展開して、われを忘れて夢中に
なることですみんながうまく参加できるゲームな就学前後の幼児なら、どはできないでしょう。
まだまだ工夫のできない年頃だから、でも、思いつきでみんなで、なにかやってるんですよねえ、遊びに慣れた子どもたちは。

勉強をライフワークにしようと思い立ったのです

すぐ喧嘩になる。すぐなにかの取り合いになる。
押したの押さないの。突いたの突かないの。わあわあわめいて、ひとりが泣いて。
そういう時に、かたわらの大人が、行司役になって中に分け入って、正邪のさばきをつけてやるみんながそれぞれ分かるように、のではなくて、それぞれの言い分や全体の成り行きを、やると、たちまち明るい納得が生じてきて
いいよいいよいいよ。もいちどもいちど確認してなんて、だれが言うともなく、もういちど遊びに没頭していくんですね。
出たとこ勝負だれがどう出るか、あらかじめ予測などつくはずもない。
その時、その場で、等分に計算してか自分だけ生かすのでは相手が不満対立を防ぐには、自分のことも相手のことも、からねばならない。
先生がまわりの生徒

大学病院に勤めてい

とっさの感覚で事を処していく。
みんなで遊ぶということは、自由な人間関係における最高の自律性のトレーニングなのです。
大人に見守られてハイ、こうして、ああして。ハイできたね。よろしいという対応からでは、到底学びとることのできないものが、そこにはあふれていますなにをしていいのか分からない
なにをしても、つまらないこういう言い方がつい出てくるような育ち方は、あとあと大変ですね。

父親と子の関係について

さあ見ててごらん。
一見、大人が見ていて、なんのことだか分からない。そんなことでも、なにかごとごと、ごそごそやり始めることがあるなら、そこからが自由のはじまり。
自由な時間を与えなさい。
保育園·幼稚園·小学校
登園拒否保育園の門まではなんとか連れていけるのですが、そこでに入れません。先生方もやさしく言ってくださるのに。
いや!
と私にかじりついてしまってなかこういう状態で困るのは、保育園や幼稚園で、新入園時に、決して珍しくないことですね慣れない場所で、慣れない人の群れにまじわることの不安と緊張なんでもない子には、なんでもないのですがねえ。
でも、なんでもなく慣れていく子を基準にして、それと比較して特別な子だ、問題がある、とは考えてやりなさんな。
単に、これまでの生活との、違いが大きいだけなのですよつい、こんなふうにしてしまいがちですがどうでもこうでも、子どもを園において帰らなければならぬと考えて、子どもの気持が今どうであるかを思いやるゆとりなど消し飛んでいるおかあさんが多いのですね、こういう場合。
母がもうひとつ偉かったと思う

子どもの心には親

子どもは必死なんだから、その必死さを受けとめてやらなければならないのに、母親が、まわりの他人にばかり気を遣って、自分の恥ずかしさややりきれなさをとりつくろうことにだけ、夢中になっている。
「もう、ほんとに、どうしてこうなの?みんな笑って見ているよ、ヨウコ。ほほほ、どうしてこの子だけがこうなんでしょう。ママ、困ってしまうわよ。
なにもこの園にこわい人なんかいないのよ。
センセーみんなやさしいでしょ。
ねえ、ヨーコヨーコったら」

いやー、いやー、帰る。
いや!
子ども心に、これは子ども自身がことばで説明する力など到底ないものの、なんだか親が自分から離れてしまっていると思うのです。

      教育ではなくなりつつある
      子どものころに皮膚感覚への刺激が不足している
      子どもだけの特権と言ってもいいでしょう。