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子どものために惜しみなく与えていくという家庭で育

子どもにしてしまっているのです。

母乳語と離乳語はどこがどう違うのか。
と、自分がうれしくて、ほんとに気持がほぐれて生き生きしているという様子で声をかけてやったら、ごく楽にカズオくんがこれといって、ある中から、一冊本を取ってくるかも知れないではありませんか。
それを、文句なく愉しく、読み手がしんから愉しくどんどん読んでやる与えてやろう、課してやろうという態度ではなく、親自身の愉しいアソビなのだな、と子どもが
そう感じて安心するような態度でですよ親に用意や構えがなく、アソビに没頭している無邪気さがあふれているなら、みあげることばが、想像力をかきたてる思いがけない世界の描出であることに、あさんに寄り添って目を輝かせて、聞き耳をたてるでしょう。
幼稚園に入っても元気なお友達

教育を行っていたのです。
子どもは、親が読つい魅かれて、か絵本の文字を指さして、ここに、そういって、書いてあるの?とでも、ひそかにたずねる気持が出てきたら、しめたものですね。文字に魅せられはじめたのですから「そうなのよさあんたに聞かせるどころか、わたし自身が、この物語が愉しくてエー」
なんて、「さあ、母親自身が文字に魅せられてうっとりという様子ですねおもしろいから、と、同じ物語を繰り返して読んでやる。

母親不在で周囲から白い眼で見られる。

ぼく。
もう一度読もうか子どもは、最初の部分なんか聞き覚えてしまっていて、かあさん聞いてて、ね。ぼくが読む」
いつしか、
ぼく、ぼくが読む読むわけでなくて、目をそこに向けながら、正確には、それは、でしかないでしょう。
覚えていることばを声にするのでも、そこからいつの間にか声と文字のつながりが、子どもの頭にインプットされます。
そして、一緒に歩いていると、「かあさん!
文字の見つけあいっこに興ずればいいんですよねかきもとのカーほらほら、あそこ!」
と、看板の字を見て、大声をあげたり。
不意にはい、おてがみ!なんて、自分で封筒らしいものに紙を折って、持ってきたり。
子供のことも我がことも区別ができにくいのでしょう

勉強とは違うんです。

その中になにも書いていなくとも、それを開いて、あ、こんにちは、げんきですかって、書いてある!なんて、言ってやったりすれば、もううれしくて、本当に文字を覚えたくなる。
ベンキョウじゃなくて、精神世界の滅法愉しいアソビ、アソビ。
塾·習いごと世間並みに、英会話、スイミング、体操、で、あいている時間が気になります。
ピアノ、算数塾に行かせていますが、家ではなんにもしないちょっと小難しい話からはじめます。
自律ということば。

伸び悩んだりしたとき

この頃よくお目にかかるでしょう。この自律という字を使ったことばとして、自律神経失調症というの。現代人にはすっかりおなじみですね自律とは、どういうことだと思いますか。
自立とは違うのです。
自律おのずから律するということです。
自分でも気づかぬうちに、心と体が自律
ひとりでにバランスよく働いて、その場の事態に適応するのトレーニングが進んでいるということです。
そういうことがつまり毎日毎日、自分の創意工夫で鍛えに鍛えて技を磨いた運動選手が、オリンピックの本番では
まったく体がひとりでにやってくれました教室での学習は、これがおのずから律する
の成果の見本です。
子育ては一回こっきりやり直しがききません。

母乳語でどんどん人間らしい心をもつようになる。

決められたことを、決められたようにしかしない学習でしょう。
ところが人生の実際問題は、決められたとおりのものはなにひとつなく、全部、いわば応用問題です。よくもう少し大きくなって、小学生の子を持つ親が、算数のことで、計算はできるのに、文章題の応用問題はからきしだめなのなんて言うではありませんか与えられた学習は型どおりできても、実際場面では、応用の心構えが身についていないと、手も足も出ない。
なにをどこまで応用したらいいのかという本番では体がひとりでにやってくれた、という自律の訓練が見事に効を奏するのとは逆に本番では、頭やおなかが痛くて、日頃の学習の成果が発揮できなかった、ということになるのは自律のトレーニングができていないためですね。

      子どもに圧力を加えるとけんかさえもできず
      子どもを教師によって
      子どもが悪い!

大学進学の意欲はまったく

子どもから反抗されたとき

これは買わないほうがいいと思うものを、子にねだられてつい買ってしまって、これはよくないなと親が教育上、あるいは経済上考えたのなら、ねだられて買ってしまった親自身が×なのだし、押し切って無理を通した子も×だ、ととらえるわけです。
私たち一緒にだったね!
と、親子が認めあわざるを得ない共感が、明日へのよい道を一緒に探っていく意欲のもとにもなるわけです。これが、つまり自由と平等の民主社会の原点ですよ聞く
=受容カウンセリングとは、聞き入れる=許容の違いが、厳しいけじめの上に立って、お分かりでしょうか。
やさしい配慮が届くやり方なのです。

責任は親にある干渉の芽生え子育てにおいては、親の、構い過ぎがよくない、とはよく言われることです。
構い過ぎ、つまり過保護ですね。干渉ですね。これは確かによくない。

  • 子供を信ずることこそ大切です。
  • 子どものころ
  • 子どもを生んだという新しい

子どもに期待したりすることが多くその結果構い過ぎ,過保護,干渉はよくないのに、それはまた、あまりにも言われていることなのに、気づいたら、そうするつもりでなくいつしかそうなっている、ということのなんと多いこと。
過保護,干渉の芽生えは、厳密に言えば、つまり次のような場面ですでにはじまっています。
子どもが、いつまでも機嫌を直さずに、ビービー泣いている、なんていう時に、ですよ。
じれったいな、と思った母親が、よく、
泣きやみなさい!
と、わが子を叱りますよ、ね一度叱って、泣く子の泣く気勢がおさまっていくのなら、それはそれでいいですよピシリと親のひと言は大事ですからね。
ところが泣きやみなさい!
効果があらわれないどころか、と叱っても、効果が一向にあらわれない時があります。
むしろ、逆効果になる時が多いのですね。
「泣きやみなさいというのに、どうしていつまでも泣くのよォ。
泣きやみなさいツ」先生がまわりの生徒

 

父親になるだろう

いらだった親の叱責が、むしろ効果音というか、伴奏音楽になって、くりあげ、声を張りあげて、いよいようえーん
子は逆に勢いを増し、しゃ実は、人間の感情というものは、命じられるままにどうにでもなるというものではありません。
子ども自身にだってどうにもならない時は、親のさしでがましい命令に応じられるものではないわけです。
応じられないでいるのに、親がひとつの方向で、構わず、もっと構いたてる。
これが、すでに、過保護とか干渉の芽生えなのだ、押してだめなら、引いてみなと言うでしょう。
母さん自身あまり人づきあいが得意ではないのです。
子供とできない
と気づくべきなのですよ多くの親のしていることを見ていると、押してだめなら、もっと押せとばかりに効果のないことに頑張って、自分もいらだち、子もいらだち、ますますやり切れない状態をつくりだしてしまうことが多いですね。それらが、つまり、過保護に通じていく親のやり方なのですね放任の芽生えどう言っても泣きやまない子どもに、何度も何度も
泣きやみなさい泣きやまなかったら、もうどこへも連れていかないわよ

どうして泣きやまないのよさと言い尽くした挙句、もう、これはどうしようもないと、いわば匙を投げた親は、いかにもそっけなく、「それじゃもう、そうやって泣きたいだけ泣いときなさいよ。知らないからもう」
一転してなんて、言い捨てる。これがまた普通によく見られる光景ですよね。
「もう一切、構ってやらないからね。知らない知らない。もう知らない。
泣きたいだけ泣いたらいいじゃない。泣きなさいよ、いつまでもそうやって」
と、親がふてくされて。

 

父親の対応は芸術的でさえある

泣きたいだけ泣いたらいい、と言われたって、ほんとのところは、なにも泣きたいという願いそのものがあるわけじゃない。
放置
こんなふうに、子どもを、いわゆるリととらえるべきなのですよ。
知らないからねッ

どうにでもなれ
つき放すのは、すでにこれが放任
のはじま

おまえの勝手でしょ!
……放任の宣言ですよ、これらはみんな。
過保護,干渉と、放任·放置はいけないのだとは、よくよく言われていることなのに、過保護をやめようとなったら、たちまち放任になり、放任にもならぬ、放任をやめるとなったら、過保護になる。
過保護にもならず、適正な親のもっていき方というものが大切です。

子どもの興味や夢がふくらんでいくでしょう。

受容することの大切さ子ども自身、自分の気持がままならない時に、親にやたらこうしなさいああしなさいと言われたって、それに応ずるわけにはいかない。
まず、平らかな心のゆとりを生ずるように、もっていってやらねばならないわけです。
子どもは、いくら泣きやまないからといっても、なにも泣きたいという願いそのものがあるから泣いているのではないのです。
泣くよりは、元気に明るくしているほうが、そりゃいいに決まっているのです。
だから、こういう子には、まず、親が落ち着いて、しっかり、泣きたくもないだろうにと思ってやるのが一番自然な気持のとらえ方だと思います。


先生がまわりの生徒 子育ては一回こっきりやり直しがききません。 幼稚園に入っても元気なお友達